自分の理解のための「歎異抄」

心情

最初に断っておくが、私は宗教家でも宗教学者でもない。

一般の読者に向けて書かれた宗教本はよく読む。理由は多分、寺の檀家で子供の頃から寺の仏事に参加し、祖父母や父の供養に係わってきたが、知識と実際が結びつかなかったため、「本でも読んで体系的に理解してみよう」と思ったからだと、何となく思っている。

歎異抄は、以前から気になっていたが触れることはなかった。なぜ、気になっていたか?大好きな作家の司馬遼太郎が「無人島にたった一冊だけ本を持っていくなら、『歎異抄』だ」と言ったことや、これまた好きな作家の五木寛之が『歎異抄』について書いているからかも知れない。

理由はともあれ、手に取る機会を作ってみた。そして、「書評」ではなく「心情」として整理した。

歎異抄は、ご案内のとおり、浄土真宗の開祖である親鸞の教えを、弟子の唯円がまとめものである。素人の理解としてまとめるなら、親鸞の教えと言って良いと思う。

まず、歎異抄は、「苦しみ」を難病とする。その難病とは、誰にでも訪れる死への恐れ、欲望、などの所謂、「煩悩」それを心の難病としている。

その心の病には、「治る病」と「治らない病」があり、「治らない病」とは殺生、偸盗、邪淫、誹謗中傷などなどの自分の欲のために他人を傷つける行為である。そして、「治る病」とは治らない病を生じさせる「考え方」と説明している。つまり、「治らない病」は、木に例えれば枝葉であり、必然的に生じる現象である。そして、「治る病」は、木に例えるならば根本であり、必然を生む「原因」としている。

そして、すべての人(民)はこれらの病気を抱える「難病人」である。この難病人が根本的に抱える病気を治す(考え方や価値観を変えさせる)には、名医が必要である。

しかし、名医と民は、必ずしも出会えるわけではない。民が名医と出会うためには、その案内者が必要である。お叱りを承知であえて例えるならば、繁華街で迷ったときに取りあえず行く「無料紹介所」であろう。

歎異抄では、名医の案内者を釈迦としている。釈迦とは、言わずと知れた仏教の開祖である。

そして、釈迦に案内される名医が「阿弥陀如来」である。そして、名医(師匠)も一人では万民を見ることができないので、その弟子である「十方の諸仏」と業務分担するわけである。

諸仏とは、薬師如来や大日如来などの仏、菩薩のことである。ちなみに、如来は仏、菩薩も仏であるが候補者と言った解釈を筆者はしている。(間違っているかもしれないが、整理はできると思う)

そして、名医にも薬が必要である。その薬、特効薬が「南無阿弥陀仏」の念仏である。

この「南無阿弥陀仏」によって、根本の「治る病」がめでたく快癒、そして根本原因が取り払われたので「治らない病」の必然性はなくなる、そこに残るのが全快=幸福、という訳である。

これが大まかな「私なり」の歎異抄の理解である。

ちなみに私の宗派は浄土宗である。生兵法のみならず、無責任なことを書いたかもしれない。ご批判やご指摘も多数あろうと思うが、コメント欄は設けていないので、悪しからず。

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